赤坂だいすけ(あかさか だいすけ) 迅速!実行!実効!

トップページ > 議会活動 > 平成19年第4回定例会一般質問

議会活動

平成19年第4回定例会 一般質問

要旨

1 学校教育について
(1) 合唱祭開催について
学校行事盛り上げのため、愛校心の育み、区内各校の有機的な連携を図るため、合同合唱コンクールの実施検討を。
(2) スポーツ祭開催について
上記の理由をもって全学校対抗運動会、もしくは近隣校対抗運動会の実施検討を。
2 スポーツ行政について
(1) スポーツ指導員について
地域に潜在するスポーツエリートの登用を
(2) スポーツ運営方法について
絶対的多数の運動初・中級者から出てくる発想には限界がある。運動上級者の意見吸い上げを。
(3) スポーツ教室について
初心者教室、新スポーツ教室ばかりではなく、たまには港区地域の恵まれを生かした上級者教室、集いなどの試みを。
(4) 公園について
区内における都立公園でのボール遊び解禁申し入れを。
3 少子化対策について
(1) 児童・生徒による世代交流について
少子化、核家族化により幼児と触れ合う機会の少ない児童・生徒に幼児と触れ合う特別授業等を設け、結婚や育児を身近に考える機会を持たせる試みを。
4 少子化対策について
(ア) 旧赤坂小学校跡地に赤坂の歴史と触れ合うことのできる常設展の設置の検討を。(保健所仮庁舎後を想定)
(イ) 学校跡地は地域特性に根づいた利用を。
5 その他

全文

◯議長 八番赤坂だいすけ議員。
〔八番(赤坂だいすけ君)登壇、拍手〕

◯八番(赤坂だいすけ君)
平成十九年第四回港区議会定例会におきまして、区長、教育長に質問させていただきます。 質問に先立ちまして、一言申し上げます。さきの統一地方選挙におきまして、多くの区民の方々よりありがたい負託を賜り、この本会議場登壇にこぎつけましたことを、心より感謝、御礼申し上げます。今後とも、与えられた大役を気概に感じ、よりよい区政実現に向け、全力を尽くすことをここにお誓い申し上げます。 先般来、私は各委員会等におきまして、たびたび発言させていただいておりますが、本会議場での登壇は初めてでございますので、今後における私の政治姿勢等について申し上げ述べさせていただきます。 一言で申し上げるならば、私の政治姿勢は「保守」、コンサーバティブであります。保守とは、記されるがごとく、保ち守るということであります。しかしながら、保ち守るものが何なのかが明らかにされなければ、保守という言葉は実質的な意味を保ち得ないわけであります。その部分をあいまいにしないところが、私、赤坂だいすけと、近年日本に蔓延しつつあるえせ保守が一線を画するところであります。 私が保守するものは伝統であります。すなわち、日本人が長い歴史を通じて培い、伝えてきた風習の中心をなす精神的あり方であります。異国ではありますが、英国の保守主義者、エドマンド・バークは、『フランス革命の省察』において以下のように述べております。「国家は、現に生存している者の間の組合にとどまらず、既に亡くなった者、はたまた将来生を受ける者の間の組合となります。それゆえ国家や法を一時的に所有しているにすぎない現在を生きている我々が、祖先から受け取ったものや、将来子孫に属するべき者を忘れて、あたかも自分たちこそが完全な主人であるかのごとくに行為することがあってはならない」。すなわち、エドマンド・バークは、国家を垂直的、すなわち過去から未来へとつながる時間を貫く共同体とみなし、現代を過去、未来と切り離して考えることの姿勢を厳に戒めているわけであります。これは現在の日本に最も欠けている感覚であるとさえ私は思っております。 先人が築き上げてきた伝統を壊すことに慎重でなければなりません。切実な不都合が起こるような習慣は悪習として捨てるべきですが、不都合がない伝統は、歴史と知恵が含まれているからこそ、長期間存続しているのです。歴史という長い時間の試行錯誤を参考にしながら、歴史の経験に学んで、善悪、美醜、真偽を見出すことが大切であります。祖先を顧みない者は、子孫に思いをいたすことすらしないということは、しばしば歴史が証明するとおりでございます。私は非常に柔軟な、そして静かな保守主義者であります。私と全くの反対意見でも、それが試行・思索を重ねられたものであるならば、私はむしろその試みへの敬意を持って、その方の意見を、私と真逆であろうとも尊重いたしますし、そのような友人も私には多々おります。いずれにしましても、伝統を我々の代で途切れさせてよいのかという議論を多くの国民が理解できていないという現状が実態であります。話が思いのほか大仰に過ぎてしまいましたので、これより通告しておりました質問に移らせていただきます。 ある事柄に関する素人が素人の感性で素直に思ったことを発言してよいのだという勘違いしたムードが、現在の日本を支配しております。世の中には事の本質、成り立ち等をしっかり認識していなければ、簡単に意見を述べては恥ずかしいことがあるという至極当たり前のことに気づくのは、結局のところ個々人の想像力の問題に帰するわけであります。何にでも口を出するという現象は、学校などの公教育にまではびこっております。アメリカ化がここまで進んでしまったと言ってしまえばそれまでですが、戦争に負けてしまったからと言ってしまってもそれまですが、自己利益獲得のためには共同体の破壊をも辞さないというごく一部の声の大きなクレーマーによって、ごく当たり前のことが当たり前に行われなくなってきたとの思いが強まるばかりであります。 もちろん公的な共同体に対して常識的な運営を要求することは当然の権利でありますが、それが常識の範囲を超え、行き過ぎますと共同体自体が成り立ちません。子どもの声がうるさい。運動会のピストル音がうるさいから何とかしろ。担任の先生の目線がエッチなので何とかしてくれ等々、異常なまでに肥大化した自意識がこれまでもかとばかり良識的な共同社会に浸入、いや闖入しつつあります。そんな中、港区では、今年度六月より「学校法律相談制度」を実施しております。法律の専門家に指導助言を受けるというこの制度に関して、ついにここまで来てしまったのかという実感があります。しかしながら、この制度は、地域コミュニティの崩壊した昨今、個人主義を根源とするますます複雑化しております学校環境を取り巻く諸問題の未然防止に役立つ、先駆的、実効的な施策であれかしと大いに期待するものであります。 さて、議員になり、運動会や創立周年記念行事に各校よりお招きを賜り、感じたことを幾つか質問させていただきます。私は生徒の合唱を聞くのが大好きです。合唱を聞いて、己の薄汚れつつある心を洗い流し、すがすがしい気持ちで帰路につくわけであります。どの学校の合唱もとてもすばらしいものでありましたが、特に十月二十七日に行われました青山中学校六十周年記念式典合唱コンクールには大変感激いたしました。どの組の合唱もまさにすばらしいものでありました。特に私が感動したのは、特別支援学級八人の合唱でありました。課題曲の「ビリーブ」、そして選択曲の「トップ・オブ・ザ・ワールド」、合唱後に沸き起こった観客の拍手歓声のすさまじさ、それもそのはずでありました。一人ひとりが心を込めて歌う姿、歌声、どれだけの練習時間をかけて挑んだのでありましょう。本当にすばらしかった。 あの瞬間は、常々障害者教育は教育の根幹とおっしゃっている高橋教育長をはじめとする港区教育関係者が進めるノーマライゼーションの体現を、私のみならず、多くの方々が目の当たりにしたわけであります。青山中学校平林校長以下教職員の皆様のご努力の賜物でありましょう。コンクール後には相原副校長よりすばらしい識見を持った説明をじかに受け、港区の教育の成果というものを実感いたしました。教育長をはじめとする諸関係者の並々ならぬご尽力に、改めて心より敬意を表させていただきます。 さて、これらの教育の成果を生かした港区内の各小・中学校が有機的な連携を持つことに可能性を感じるのは私だけでしょうか。現在も中学校におきましては、各校代表生徒の合唱や演奏による「音楽交歓会」が行われておりますが、さらにここで思い切って区内全学校全クラス対抗による、課題曲、自由曲目を合唱する港区小中合唱コンクールの実施を提案させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。  各校生徒による音楽を通したすばらしい触れ合いは、生徒の愛校心のはぐくみ、そして同じ港区内という連帯感を養う有意義なものになると思われます。教育長のご見解をお伺いいたしたく存じます。 そして、ここは音楽にとどまらず、運動会においても、例えば、三年に一度、港区小学校オリンピック、港区中学校オリンピックのような全生徒参加型学校対抗運動会の開催を派手派手しく行いたいものです。現在行われている小学校連合運動会、中学校連合体育大会とは、全生徒参加型ということで趣をたがえております。学校間の交流を、そして自校への愛校心のはぐくみのためにも、最初は難しければ、せめて近隣校対抗運動会でも開催すれば、保護者のみならず、近隣住民の盛り上がりも期待できます。ご答弁をよろしくお願いいたします。 それにつけましても、学校にお招きをいただき、最初に感じるのは、やはり生徒数の少なさであります。私は、港区、東京、いや、すべての、すなわち日本において語るべき最重要課題は「少子高齢社会」であると思っております。あえて申し上げるならば、この問題の本質に思いをいたさない、理解できない、あるいは実感できない方々は、指導的立場で活動する基本的資質を欠いているとすら思っております。先進諸国が有史以来初めて迎えると言えましょう未曾有の大問題。港区の子ども支援担当の部課長をはじめとする皆様にとりましても気苦労の多いことと拝察いたします。 ここで注釈を入れさせていただきますが、子どもが欲しくても産めない方々に対する配慮を忘れてはいけません。私のごくごく近しい親族にも不妊治療で苦労している者がおります。そのような方々は大変つらい境遇に置かれていることは申し述べるまでもないことであります。 昨今、産みたいのに産む選択をしないという希望と実態の乖離、すなわち産める方々が産まないという選択についての理由の多くは経済的理由に帰結されがちであります。私と同年代の友人にも、経済的に安定したら子どもを産むつもりという友人が多数おりますが、果たして二十代、三十代とは経済的に安定する年代なのでしょうか。それよりは早く産んだほうが励みになってよいかもという方向性に行政が導けないものでしょうか。 私自身は経済的に最も困窮していたときに子どもを授かりました。今は貧乏の極みだが、この子のために身を削ってでも頑張ろうと思いました。おなかで動いていた命、そして出産のとき、血潮の中から生まれ出た新しい生命と出会いました。まだ目も見えていない赤ん坊が早速に母乳に吸いつくさまを見て、生命の神秘といいましょうか、偉大さといいましょうか、赤ん坊を抱きしめる妻を見て、母性というものに圧倒されました。母性というものの強さ、そして何よりもありがたさというものをこれほど感じたことはない。幾千世代、そしてここにいる方々を含め、世界何十億人という方々が同様にして、大いなる母親の苦難の末に血潮の中から誕生したにもかかわらず、出産が経済的観点から語られるのが常である現状は寂しい限りであります。 新しい生命の誕生、そしてはぐくみは何よりも尊いのだという共通認識を皆が持つこと、そして妊娠中の女性を社会全体が温かく見守るという雰囲気が絶対前提であります。社会全体にその雰囲気が甚だ希薄であります。まずもって子育て中の母親への敬意が薄い。よほどのことがない限り、妊婦やベビーカーを押しのけてまで電車に駆け込まなければならない仕事、用事などこの世には存在しないのであります。おのおの各方面、各持ち場においての働きかけが早急に求められております。 私自身は、十歳、少なくとも三歳までは母親の手元で子どもを育てるべきであると考えております。これは決算特別委員会で申し述べましたが、母親が外に出て働いてほしいと考えている子どもはおそらく一人もいないのは当然のごとく人間の本能であります。そのために行政がすべきことは、在宅で育てる環境の整備、すなわち経済的支援であることはたびたび申し上げているとおりでありますので、ここでは再度申し上げることはいたしません。子育て支援とは、子ども支援にほかなりません。親の利便性の重視ばかりでは真の子育て支援ではありません。現在の日本を覆っている出産直後より母親が働ける環境を整えるという少子化対策は、子どもからかけがえのない母親を引き離し、欧米並みに女性を働かせようという経済学者のもくろみ、そして増税政策以外の何物でもないことを一人でも多くの方が気づけばよいと切に願うものであります。 秀明大学教授のマークス寿子氏は、母親が子どもの面倒を見なくても済む社会風潮を嘆き、以下のように痛烈に批判しております。「産んでさえくれれば、あとは社会が引き受けます。安心して残業もしてください。スキーにも行ってくださいと、親としての自覚も責任感もなしに、子どもを産んでも困らない社会が理想の社会であろうか」。 さて、子どもを連れて出かけますと多くの発見があります。中でも私がおもしろく感じましたのは、多くの中学・高校生、すなわち十代の学生が幼児に興味を示してくることでした。最新ファッションに身を包んだギャル系、すさまじい化粧をしたマンバ系の女子中高生などが「かわいい」と言って幼児に手を差し伸べてくるさまに何度も遭遇したのには意外な感に打たれました。発音が違うだろうと言おうかと毎回思いますが、「超かわいいんだけど」と言ってぎこちない手つきながらも子どもを抱くさまを見て、いつの日かこの子たちも母親になるのであろうと思うと、何だかほんわかとした感慨深い思いにとらわれます。彼女たちが自分たちも紛れもなく幾千世代連綿と続く生命リレーの尊い構成員の一員なのだという思いを抱き続けられる社会であってほしいと願わずにはおられません。 そこで、質問であります。核家族化、少子化が進んでおり、兄弟姉妹がおらず、幼児に触れる機会もない若者に、小さな子ども、育児中の親などと触れ合い、結婚や育児を身近に考える機会を持たせることも役に立つかと思います。幼稚園や保育園、子育て支援センターの協力を得て、小中学生が授業の一環として訪問する。時間的に無理であるのでならば、家庭科の時間などに子育て中のご家庭にご協力いただいて、じかに幼児と触れ合ってみる等、本来人間が当たり前に備え持つ母性や幼子を慈しむ心をはぐくむ、そんな特別授業はいかがでしょうか。世代を超えた交流は、社会の問題や共存して生きていく自らの将来像を考えるいい機会になろうかとも考えられます。ご答弁をよろしくお願いいたします。 次に、スポーツ施策についてお尋ねいたします。 私は、学生時代よりテニスの指導を生業としていた時期が数回あります。大学時代よりテニススクールで十数年間、現在も渋谷区、世田谷区、神奈川県、千葉県の延べ八つの中学・高等学校におけるテニス指導を行っております。これまでおよそ十数年、千人に近い子どもたちを指導いたしましたが、私は最初必ず本気で打ったショットを見せつけてから指導に入ることを心がけております。私の本気で打った速いショットを見ますと、子どもは総じて目を輝かせます。だらだらしたりする子どもはこの十数年間、ただの一人も私のクラスにはいなかったと断言できます。そして必ず心がけることは、強い者、うまい者を必ず優遇する練習システムにするということであります。たとえ本気思考の部活ではなくても、運動クラブである以上はそうしなければ必ずだれます。上昇思考のない運動練習は必ずけがにつながります。楽しむという言葉を履き違えてはいけないのです。 子どもは天才であります。必ず何らかの取り柄があります。その才能を見つけたら、それを褒め伸ばしてやることが重要で、スポーツが強ければ、それを直ちにスポーツの場で優遇することこそがその才能への報いであると考えております。たとえスポーツが苦手な子でも、勉強ができる、手先が器用である。ほかにもさまざまな活躍の場があるはずです。運動が得意な子は運動の場で脚光を浴びさせてあげなければかわいそうであります。私自身長らく悪しき平等主義の被害者でありました。小学校時代には、速く自信があった徒競走も皆で手をつないでゴールするというルールに涙をのみました。少年期より現在に至るまで得意であった球技も皆でやるのが必然であるかのような、コカコーラのCMのような、すなわちみんなで笑顔、ミスしても楽しく笑顔主義によって常に手加減を余儀なくされてまいりました。 私には衝撃的な実体験があります。一九九六年、私はプロテニスの大会であるジャパンオープンにおきまして、来日外国人選手の取材をしておりました。その年は当時の世界ナンバーワンであったピート・サンプラスが来日しておりました。決勝戦当日、前座の女子決勝が行われ、日本人の伊達公子選手が試合をしました。会場である有明コロシアムは超満員の客入りでしたが、何と伊達選手の試合が終わると、メインイベントの男子決勝前に観客の四割ほどが帰ってしまったのであります。控え室では温厚で紳士な人柄で有名なサンプラスが怒髪天をつく怒りようでした。彼の言葉を忘れることができません。「自国の選手を応援するのは結構だ。しかしながら、日本人は世界で一番テニスが強い人間の試合を、メインイベントが見たいわけではないことがわかった。とても残念だ。こんな屈辱は初めてだ。こんな国はない。私は二度と日本に来ることはない」。以来、サンプラスは二〇〇三年に引退するまで、そして引退後も、現在に至るまで来日はしておりません。この事件の余波は予想以上に大きく、賞金額が多いにもかかわらず、二〇〇六年に現在のナンバーワンであるロジャー・フェデラーが来日するまでの十年間、ただの一度たりとも男子のトップクラスの選手が日本に来日することはなかったわけであります。 これに類する話はほかにも多々あり、その昔、あのジョン・マッケンローも一九八八年に来日の際、一般コートでの練習時間が五分オーバー、一般人からクレームを受け大げんか。私なら多少自分の練習時間が五分ほど減ろうとも、かつてのウィンブルドンチャンピオンの練習を間近に見られるということはむしろ光栄に思うでしょうが、日本の一般プレーヤーはそうではないようです。マッケンローは「日本ほどトップに対する敬意がない国はない。日本の経済文化は超一流、スポーツ理解度は世界最下等だ。上達の意思がなく、楽しむだけが目的の人間が行うテニスは時間と空間の無駄である」と吐き捨て、二度と日本に来ることはありませんでした。ご存じ、あのマッケンローですから、多少極端に過ぎた発言とはいえ、一理なくはありません。 日本における少数の上級者と多数の一般テニス初級者のあつれきはこれにとどまりません。一昨年には文部科学省とJOCが進めていたテニスのナショナルトレーニングセンターが、東京都北区の地元住民の反対によって中止となりました。市民に開放している十三面のコートのうち、たった四面を、ハードコート二面、クレーコート二面に改修し、ナショナルチームが遠征前の調整時のみ使用するという甚だ妥協的なものでありましたが、初心者用といいますか、初心者に好都合なオムニコート、つまり、人工芝コートがなくなることに地元住民が反発したのです。ちなみに、オムニコートとは、公式試合には一切許可されていないにもかかわらず、世界的にも唯一日本だけに非常に多い人工芝コートのことで、水はけがよいという管理上の都合、そしてシューズや靴下が汚れないという甚だスポーツとは無縁な理由で、日本全国一般用コートはこのほとんどがオムニコートであります。しかしながら、オムニコートは競技者の身体への負担が非常に大きく、競技者の故障の原因、さらには日本テニス低迷の主原因とも言われております。ちなみに港区も区内コート三カ所十面、すべてオムニコートであります。これほど日本で盛んなテニスですら、デビスカップやオリンピック出場のための国の代表チームが一般テニス初級者の反発によって練習拠点が持てないわけであります。他の競技も推して知るべしであり、いかに日本人気質が上級者、スポーツエリートを排除しがちであるかということの証でもあります。 私はむしろ運動の領域は、運動ができる人間が導くからこそのあり得るべきスポーツ振興が可能であり、地域も本来の盛り上がり方をするのだと思っております。先日の決算特別委員会でも申し上げましたが、港区という土地柄、街にはさまざまなスペシャリストがおり、団塊の世代は定年を迎える時期でもあり、かつてのスポーツエリートたちの中には地域貢献をしたいと思っている逸材があまたおります。ただでさえ都心部であることから、子どもたちの運動能力形成上、他の地域に比べて、場所の面で大変恵まれない状況でありますが、柔軟な人材登用が可能になれば、都心部港区ほど指導者に恵まれている場所はないということを忘れてはなりません。それらの逸材を地域指導員として引き上げる努力こそが行政に求められているところであると思います。スポーツエリートならではの経験や発想を生かした、港区ならではのスポーツ振興の仕組み、あり方をご検討いただきたく存じます。 さて、六本木地域では総合型地域スポーツ・文化クラブ、「スポーカル六本木」が口火を切って、今月十八日に発足されました。中学校学区域が範囲ということで、港区内には将来的に中学校数に相当する数の総合型地域スポーツクラブが発足する流れであります。文部科学省が策定したスポーツ振興基本計画を受けて、生涯スポーツ実現の場として位置づけられている総合型スポーツクラブは地域コミュニティの核として大きな期待が内外より寄せられております。 先日、同僚議員の導きで「スポーカル六本木」の会長とお会いいたしました。会長はご自身がスキーの公的資格をお持ちであり、スポーツに関しましても大変すぐれたご見識がおありで、一々共感するところばかりでありますが、先ほど来申し上げております、必ずしもスポーツに対する理解が成熟しているとは言えない日本の風土のもと、港区とて例外ではなく、今後かなりの試行錯誤を余儀なくされ、苦労されるであろうと拝察いたしました。もちろん、さまざまなスポーツ観があってしかるべきであります。しかしながら、老若男女、レベルが違う者同士が笑顔で一緒にやるというスポーツは、スポーツというより大人の運動不足解消であり、例えば目標に向かって努力し、達成するという経験、勝つ人もいれば、負ける人もいるという現実等さまざまを味わうことができるスポーツの可能性を狭めているのではないでしょうか。何よりせっかくの伸び盛りである子どもたちに資するところが少ないのではないかという危惧を抱かざるを得ません。 私自身で申し上げれば、近日中に野球では美しい若い肉体を持った青年に私はマウンドからたたき出されるでありましょう。テニスでは躍動感あふれる若さにコートからはじき飛ばされるでありましょう。それはかつて私がやってきたことでもあります。私は近い将来に訪れるその敗北の瞬間を楽しみに待っております。若く美しい勝者に敗北を喫し引導を渡される。いかに潔くさわやかに身を引くか。これは若年時よりスポーツになれ親しんだ私がスポーツより導き出した私なりの人生訓であります。 スポーツの根底にはうまいか下手か、強いか弱いかだけがあります。悪しき平等主義もありません。チャンスは与えられますが、下手なら、弱ければ退場させられるのであります。うまければ、強ければマウンドで、グラウンドで君臨できる。飲み会の席で「私、お酒飲めません」という方が宴席のど真ん中にいることはあっても、ピッチャーできませんと言ってマウンド上にはいられないわけであります。社会的立場、上下関係などみじんも通用しない。だからこそスポーツは思想信条を、国境国籍を、肌の色を超えて皆を一つに結びつけることができるのであります。 今後、他地域で設立される総合型地域スポーツクラブの開催競技は、さきに述べましたようなスポーツのさまざまな醍醐味を味わえれるからこそのメジャー競技という特性を持つ、歴史があり、競技者人口も多い野球、バレーボール、バスケットボール等のなじみの深い競技が妥当であろうと思われます。港区のスポーツイベントで行われている幾つかの種目の説明書きを読みますと、ルールはドッジボールながら、ボールが柔らかいので当たっても痛くないというドッチビー、ボールが柔らかいので当たっても痛くない、突き指の心配がないというソフトバレーボール。当たるのが怖いのならばディフェンス技術を磨き、突き指が怖いのならば突き指をしないような捕球技術を覚える、教えることのほうが先であると思っております。だれでも手軽にという競技ばかりに既存の運動団体が時間を奪われることに不満を覚える方々も出てまいりましょう。 さて、ある一定多数の区民要望を受けてお尋ねいたします。行政側はスポーツの場において子どもや上級者に比べ、運動初心者や高齢者ばかりを優遇していると、ある一定多数の区民は不満を覚えております。努力を重ねることで技術を研磨してきた運動上級者への配慮についてでありますが、例えば、初心者教室ばかりではなく、港区ならではの恵まれを生かして、元プロなどを招いた上級者教室、集いなどを試みることができないものか。さきに申し上げたスポーツエリートならではの経験・発想を生かすことについてのご検討を含め、教育長のご見解を、よろしくお願いいたします。 現在東京都は、二〇一六年のオリンピック開催候補地に名乗りを上げている最中であります。区長も東京都のスポーツ振興審議会委員でいらっしゃるとのこと、今後とも中長期的な視野でスポーツの本質というものを、行政、議会ともども協議し合いたいものであります。 また、さきの決算特別委員会にて、区立公園においてボール遊びは禁止されてはいないというご答弁をいただきました。子どもたちは大変喜んでいるところでありましょう。しかしながら、区内における都立公園においては、ボール遊びが禁止されているところが各所に見受けられます。といいますより、子どもならではの激しい遊びが、ごく一部の声の大きなクレーマーによってことごとく禁止の憂き目に遭っております。大人の利便性のもとで子どもたちが居場所を奪われている現状を打破し、「公園は子どもが主役であれ」という私の持論は既に何度も申し述べておりますが、まずもって都立公園において子どもたちがボール遊びができるよう、さらに防球ネットなどのハード面での設置要請もあわせて、東京都に再度要望をお願いいたしたく、区長のご答弁をよろしくお願いいたします。 最後になります。学校跡地利用についてお尋ねいたします。港区各学校跡地においては多様な視点からの活用がなされておられることと拝察いたしますが、旧氷川小学校跡地や旧桜川小学校跡地のように、高齢者保健福祉施設を中心とする施設、旧神明小学校跡地のように住宅を中心とする施設など本格使用が行われているところのほか、本格使用に至らず暫定活用中のところもあります。今後は暫定活用中の土地においても、将来を見越しての活用検討が必要となってまいります。学校の機能が失われたとはいえ、その場所はかつての地域コミュニティの、そして近隣住民、同窓生にとってのノスタルジックな核であり続けております。「港区土地活用方針」の項目にも挙げておられます、地域の特性や地域のまちづくりに資する活用、魅力ある景観の形成、歴史・文化に配慮した活用の推進に今後ともご尽力いただきたいと切に要望する次第であります。 赤坂地域の旧赤坂小学校跡地では、現在「ダイアログ・イン・ザ・ダーク2007東京」が展示中であり、大変ご好評である様子です。今後は暫定使用として保健所の仮庁舎が置かれるとのことでありますが、将来的には本格使用を見越した協議がなされるわけでありましょう。赤坂地域の方々からの要望としては、常設展のような赤坂の歴史がわかるシンボリックな、赤坂の住人にも、外からいらっしゃる方々にも赤坂の歴史を感じることができる空間に、景観に関しましても、例えばですが、赤坂ゆかりの勝海舟の屋敷門が現在練馬の三宝寺に移築されておりますが、赤坂在住の有力者によれば、三宝寺のご住職様も勝海舟にゆかりのある赤坂ならば、移築には検討の余地があるとの情報も内々に来ております。港区新郷土資料館建設への期待も高まる中、よりコアな地域の歴史を体感できる空間は新たなコミュニティ形成にも寄与するのではと考えます。ほかにも、先だって多くの方々のご尽力により、まずは一基が修復された赤坂氷川山車を常設展示しておくとか、これは参考ですが、このような観点も含め、可能性を探ってご検討いただきたいと考えております。 区長のご所見をお伺いいたし、私の質問を終わります。ご清聴ありがとうございました。〔区長(武井雅昭君)登壇〕

◯区長(武井雅昭君)
ただいまの自民党議員団の赤坂だいすけ議員のご質問に順次お答えいたします。 最初に、スポーツ行政についてのお尋ねです。 都立公園でのボール遊びを可能とする要望についてです。都立公園でボール遊びをすることは、球技広場以外、公園利用者や周辺住民に迷惑をかけることから禁止されております。しかしながら、青少年が屋外で遊ぶことの少ない現在、キャッチボールやミニサッカーなどを通して友だち同士が汗を流すことは、青少年の健全な育成につながり有意義なことと考えております。このような観点から、東京都に再度、ボール遊びのできる広場の確保について要望してまいります。 最後に、学校跡地の利用についてのお尋ねです。 旧赤坂小学校跡地は、「港区土地活用方針」の中で、「区政を補完する機能や地域の課題解決のための活用、国際性や文化性に配慮した活用を検討します」と位置づけております。これを受け、現在、地域の皆さんの声を伺っているところです。「港区土地活用方針」の方向性を基本に、今後、跡地周辺にかかわる歴史や地域に受け継がれた文化に配慮し、地域の皆さんのご意見を踏まえながら、引き続き活用策を検討してまいります。 よろしくご理解のほどお願いいたします。 教育にかかわる問題については、教育長から答弁いたします。 〔教育長(高橋良祐君)登壇〕

◯教育長(高橋良祐君)
ただいまの自民党議員団の赤坂だいすけ議員のご質問に順次お答えいたします。 最初に、学校教育についてのお尋ねです。 まず、小中学校合唱コンクールの開催についてです。各小・中学校では、校内で音楽会や合唱コンクールを実施し、子どもたちに音楽のすばらしさを感じ取らせる中で、豊かな情操や連帯感をはぐくんでいます。また、中学校の音楽交歓会では、合唱をはじめ、琴、ギター、金管バンドによる演奏など、各学校の特色を生かしたさまざまなジャンルの音楽を発表しています。それぞれの演奏を聴き合うことで、生徒たちは自校を誇りに思うとともに、他校のよさも感じ取っています。ご指摘の小中学校合唱コンクールにつきましては、各学校の特色を生かした音楽活動を充実していく中で、今後の検討課題とさせていただきます。 次に、全学校対抗運動会の開催についてのお尋ねです。 区では、積極的に運動に親しみ、自己の可能性に挑む機会として、小・中学校別に連合の体育大会を実施しています。この大会は、既に大正十五年から行われ、八十年を超える歴史を重ねています。この大会には、学校を代表して、小学校では六年生、中学校では二年生の全児童・生徒が各種の競技に参加し、競い合い、応援し合っています。また、毎年、保護者の声援も受けながら競技に取り組む中で、自己の記録に挑戦する中で、区の新記録が生まれるなど、子どもたちにとって大きな励みとなっております。現在、子どもたちの体力の低下が指摘されておりますが、区では、子どもたちの体力向上に努めるとともに、協調性や連帯感をはぐくむことができるよう連合の体育大会を充実してまいります。 次に、小中学生と幼児との交流についてのお尋ねです。 生きとし生ける者には、皆かけがえのない生命が宿っています。赤ちゃんがおなかをすかせて泣いている姿や声は、必死に生きていこうとする証であり、小さく柔らかなその手には、限りない未来の希望と夢が託されています。この小さくもいとおしい生命への感動を子どもたちに伝えていくことは、教育の基本です。小・中学校と幼稚園、保育園との交流は、児童・生徒にとって幼児への接し方や思いやり、生命を尊重する心をはぐくむための大切な機会です。小学校では、学習や行事に幼児を招き、ともに活動することで幼児をいたわる気持ちが養われます。 中学校では、職場体験や、家庭科の「幼児の発達と家族」の学習で、幼稚園や保育園に出向き保育実習をしています。この学習により、乳幼児を慈しむ気持ちを持つとともに、子どもが育つ環境としての家庭や家族の大切さについて学んでおります。今後とも、幼稚園や保育園との日常的な交流や連携を教育課程に位置づけ、望ましい家庭を築く素地を養ってまいります。 最後に、スポーツ行政についてのお尋ねです。 スポーツエリートの意見を取り上げることについてです。教育委員会はスポーツの普及、健康の維持向上を図るための各種事業に取り組み、区民の自発的なスポーツ活動を通じたコミュニティの活性化も含め、生涯スポーツの振興を進めています。区民の自主的なスポーツ活動を充実させるとともに、例えば、子どもたちがトップアスリートの指導を受けたり、その練習を見ることは意義あることと考えます。現在もバスケットボール、サッカーや野球などの種目においてプロ選手の指導を受ける機会もあり、子どもたちには貴重な経験となっています。今後は、学識経験者等で構成されるスポーツ運営協議会などにおいて、ご意見等をいただく中で、スポーツ教室のあり方についても検討してまいります。 よろしくご理解のほどお願いいたします。