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議会活動

平成21年第1回定例会 平成21年度予算特別委員会 【総務費】

要旨

1 特定失踪者生島孝子さんについて
(1) 麻布支所勤務職員であった彼女が拉致被害者である可能性が取沙汰されている。その後の確認作業の進捗状況は。
(2) 事案事態の存在を明らかにすべく、区報・ケーブルテレビなどにおける情報の告知は。
2 その他

全文

◯委員(赤坂だいすけ君)
よろしくお願いします。本日は1点のみです。 日本政府は現時点で11件16名の日本人拉致を認定しております。しかしながら、北朝鮮による拉致被害者の数は500名を超えるとも指摘されております。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会、つまり救う会には自分の家族も拉致されたのではないかという申し出が全国から殺到したため、事態を重く見た救う会が平成15年1月、独立した調査機関として、特定失踪者問題調査会を設立したために、特定失踪者問題が取りざたされるようになりました。 現在、拉致の疑いが否定できない特定失踪者が250名以上に上り、うち拉致の疑いが非常に高いが政府にいまだ認定されていない特定失踪者は30名以上に達しております。しかしながら、失踪日時が昭和20年代にさかのぼる事例もあり、捜査機関により家出や自殺と断定され捜査を打ち切られた事例も多々あります。そもそも当時の社会認識から申し上げまして、拉致の観点から捜査をされたもの自体が少なく、決定的に情報が不足しており、多くの方が認定には至っていないというのが現状であります。 その非常に拉致の疑いが強いとされている方々の中の1人生島孝子さんは、失踪日時の昭和47年11月1日当時、港区の麻布支所において電話交換手として勤務されておりました。この案件は、フォーラム民主の山本閉留巳議員が平成19年第3回定例会において取り上げておられたのでご記憶の方も多かろうと存じます。その定例会におきまして、区長答弁といたしまして「拉致問題の解決は、喫緊の国民的課題であり、今後とも、拉致問題をはじめ、さまざまな人権侵害問題に関する区民の認識を深めることが重要と考えております。生島孝子さんが行方不明になった事実については確認をしており、現在、関係機関による捜査等を見守っている状況です。今後、真相が解明される中で、区として適切に対応してまいります」とありますが、その後の進捗状況を聞くことは、時間短縮のためにあえてお伺いいたしません。およそ区の所管を越えたものであるので、質問するまでもないと判断いたしました。結論から申しまして、その後、関係機関による捜査の進展は微塵もありません。 政府による調査も、昨年の12月、初めて内閣府拉致問題対策本部より失踪者の氏名、生年月日、失踪年月日、失踪場所を記入する用紙がぺらっと初めて送られてきただけだということを、孝子さんのお姉さんの生島馨子さんがおっしゃっておりました。政府の姿勢が伺えます。 拉致被害者すべてを救い出すと政府は言いますが、その拉致被害者の中に特定失踪者は含まれてはおりません。拉致問題に比して国民への周知が不徹底な特定失踪者問題にかんがみ、生島孝子さんが港区勤務員であったという、当事区としての自覚を呼び覚まして、一連の事案に対する周知への努力はすべきです。かつては拉致など予想もされなかったが、極めて不自然に蒸発した人物が港区にもいやしなかったか。そういえばと思い当たる方がいなかったか。拉致は平成14年の小泉訪朝まで、日本全国日常で行われていた犯罪です。 区報、ホームページ、ケーブルテレビなどにおける告知、また過日行われました人権週間における区役所1階でのパネル展示においても、港区職員の失踪という区民の関心を喚起するには最も適しているであろうという案件の紹介がなされていなかったのは疑問であります。この案件の紹介は区民の人権問題啓蒙・理解に大いに資すると考えますが、いかがでしょうか。ご答弁をお願いいたします。

◯参事(総務課長事務取扱、人権・男女平等参画担当課長事務取扱)(鈴木修一君)
拉致問題は我が国の国家主権及び国民の生命と安全にかかわる重大な問題であり、喫緊の国民的課題であると考えております。区では広報みなとの人権特集号や人権啓発ポスターの掲示により、北朝鮮による人権侵害問題への理解と関心を深めるよう働きかけてまいりました。また、東京都では北朝鮮人権侵害問題啓発週間に合わせまして、拉致被害者、特定失踪者に関する写真・パネル展を開催をしてございます。今後、これらの情報の周知も含めまして、この問題についての区民の認識をより一層深めるよう努めてまいります。

◯委員(赤坂だいすけ君)
ここで被害者生島孝子さんのお姉さんの生島馨子さんよりお手紙を預かっております。本日、あちらの方に緑の服を着ていらっしゃっておりますが。 「拝啓 私は昭和46年、47年の2年弱、港区役所麻布支所の交換手で奉職しておりました生島孝子の姉でございます。孝子は昭和47年11月1日、突然行方不明になりました。家族としては公のことは警察が告発して、後の進捗状況を含め何ら知らされておりません。過去にただ一度安倍内閣時の官房長官に書面を受け取っていただいただけです。 生年月日、昭和16年6月14日、失踪日時、昭和47年11月1日、失踪場所、渋谷区笹塚三丁目付近、当時の職場、港区役所麻布支所交換手、告発、平成16年10月受理。 33年経過した平成16年、18年前に北朝鮮で見たという韓国人男性の証言を得て告発いたしましたが、いまだ政府の拉致認定、拉致被害者認定は得られず4年半が経過しております。 孝子は6年近く東京都中央卸売市場に勤めておりましたが、夜勤がほとんどですので、病弱な母を引き取り面倒を見たいと、昼間勤務の港区役所に職を求めたのです。 孝子の行方不明となった日、母は入院しており、退院後は孝子の元で予後を過ごせると楽しみにしていたのですが、覆されてしまい、ショックでさらに体調を崩しました。母は入退院を繰り返し、夫の死をも乗り越え、33年頑張りました。どんな良薬より「たあちゃんに会うまで頑張ろうね」という言葉に生きる力を得ておりましたが、目撃証言に安心したのか、証言の7カ月後の寒い2月99歳11カ月、あと一月で満100歳になるというところで力尽きてしまいました。母は「たあちゃんを取り返してくれないの」と、悔しがって死んだのです。それから4年過ぎましたが、何一つ進みません。特定失踪者も並行して調査情報収集をしてほしいと強く求めます。 当時の状況ですが、当時港区麻布支所に電話交換手として勤務していた孝子は、もう一人の妹敦子と2人でのアパート生活でした。その日、1日、年次休暇を取り家事をしていたようです。次の日、敦子から帰宅しないと聞き、大騒ぎとなりました。職場の上司に相談しましたが、5年間、東京都中央卸売市場に勤め、区役所に移って2年弱のせいもありましょうか、区としては冷たい仕打ちでした。捜査依頼には協力していただけるところはありませんでした。おみ足の悪い係長さんだけに応対していただいたことを思い出します。 当然、給料は即座に打ち切られております。10月分の給料を11月に母と私で受け取りに伺いましたが、受け取りサインは父でなければ渡せないと言われ、明治生まれでろくに学を受けてない父は文字を書くことを嫌がり、苦労したことを思い出します。無断退職だと誤解されていたためでありましょう、孝子の荷物置場を指示され、母とおわびを重ね重ね皆様に申し上げつつ、冷たい目線にさいなまれながら荷物を受け取りました。誤解いただきたくないのですが、当時の港区の方々を責めているわけではありません。当時拉致など予想だにしない周囲は、皆一様にそのような態度でした。 警察からも孝子が31歳という年齢だからでしょうか、大方駆け落ちでしょうと、まともに取り合っていただけませんでした。警察は、孝子を行方不明者として扱いませんでした。1年後、警視庁の行方不明者捜査特別月間で改めて取り上げられましたが、何ら進展はしなかった。やがて30年がたち、あの第一次小泉訪朝の際、政府から行方不明者の調査として依頼したリストに載っていなかった曽我ひとみさんがおり、もしかしたら孝子もとの思いで家族会に入れてほしいと名乗ったのですが、断られました。平成16年北朝鮮脱北者の韓国人学者呉吉男氏が18年前に孝子を目撃したとの証言が上がりました。孝子と1年間同じマンションで会話をしたとのこと、6月には私自身が訪韓して彼に確かめてまいりました。 以後4年経過しましたが、当然ながら政府としては何の対応もしません。警視庁としては最大限に捜査をしているが、国や自治体が何も対応しないことに疑問を持っているのではないでしょうか。特定失踪者からの拉致認定も松本京子さん以来、途絶えております。──ちなみにこれは福田政権誕生の時期と重なっております。それ以降認定はされないと。 どうしてもわからないのは、全国の自治体がばらばらの理解をしているのではないか、対象者がおり積極的に自治体、支援者でも本気でどこまで取り返さなくてはと思っているのか疑問なのです。本論からはずれて済みません。区に対しては過去にこのようなことがあったと認識していただければありがたいことです。現在の区民には直接関係のないことですが、いろいろ望みません。 しかし、孝子は38年目になります。拉致はこのように長い期間、全国に発生している事件で、しかも現在進行形である。5人の方とその家族を取り返しただけでは解決していないのです。また、拉致認定されていない特定失踪者は置き去りのままです。 区役所に当時の方はいなくても、孝子は間違いなく港区の勤務員でした。孝子の事件に関する告知は特定失踪者も含めた拉致問題全体の啓蒙・理解に大いに資すると、大いに効果があると思います。──超過しますが、ご容赦ください。 不況下に独自の問題が多い中、申しわけございません。日本には孝子だけではなく、多くの不審な行方不明者がおります。20年、30年、40年、50年以上にもなる方がこの東京にもおります。人生のほとんどの期間です。家族も同じ時間を悩んでいます。港区だけの問題ではありません。東京に、また身近にあるということを多くの方に知っていただき、拉致問題の解決にご支援いただきたいと願っております。 3月なのに、春は目前、拉致被害者にもいつの日か春が訪れることを信じております。どうぞ皆様、よろしくお願い申し上げます。かしこ。」 生島孝子さん失踪当時、お母様のうらさんは白内障の手術で入院していらっしゃいました。あと数日で退院するというときでした。母思いの孝子さんがこのような時期にみずから失踪することなんて考えられない。孝子さんがうらさんの手術後にお見舞いに訪れたとき、うらさんは手術後ということで目を包帯で巻かれていたために、目を見ることをできなかったとのことです。孝子さんの声を聞いた最後でした。 母うらさんは孝子さんの生存を信じておりました。探し回りました。テレビインタビューはビデオですが、私は拝見しました。孝子さんの母のうらさんの言葉を拾ってみました。「最初は夢中になって探したんですよ、心配してね。探したんですけど、だんだん日がたつにつれて。あの子は心のやさしい子でした。だけど、すごくやさしい反面しっかりした、ものすごくしっかりした気の強いところ、自立心が強い性格の子だったものですから、だんだんにほら、もしかしてね、今までわからないんじゃ、どこかで自立して生きているんじゃないかって、そういうふうに信じるようになっちゃって、来年もう100歳になりますけども、どうしてこんなに生きちゃったのかと自分でも思うんですけど、ただ、どこかで生きてくれれば、それがたった1つの頼りだ。よろしくお願いします」。その後、お姉様の馨子様からの目撃証言を聞いて「よかったね。死なないでよかった。よく頑張ったね。苦労したんだろうね。生きているからには、あんなにきちょうめんできれい好きだったから、随分苦労しながらも向こうで身についたわけだわね。頑張ったね、あの子。あの子のことだから」と。「帰ってこれるね」というお姉さんの問いに「ああ、帰れればね」、お姉様が再び「105歳まで生きなきゃなんないかな」、うらさんは「あと5年」、お姉様が「あと5年、頑張れる」、「高齢になって頑張れない、あと1年ぐらい。でも生きていたということだけ大したもんだね。苦労したんだろうね。私が生きていると知ったら、あの子はどう思うかしら。あの子に知らせてあげられたら、それだけが望みなんです」。翌年の平成17年2月7日、100歳目前にうらさんは亡くなりました、孝子さんに会えぬままに。 生島孝子さん失踪日時昭和47年11月1日と聞いて、私たちは何をしていただろうと思い浮かべる方も多いでしょう。多くの人にとってはよしにつけ悪しきにつけ、感慨深い思い出の1ページと化していることでありましょう。私で申し上げれば、この世に生を受けたばかりの0歳児でした。しかしながら、生島家にとってはこの日より37年4カ月間、慟哭の決してさめやらない苦しみが続行しているのです。 私も今ブルーリボンをしております。山本閉留巳議員などのグループが今拉致被害者の奪還を思ってつくったものだそうですが。私も四六時中、拉致問題を考えているとか、被害者の暮らしを片時も忘れたことはありませんなどとという、そんな偽善を気取るつもりはありません。しかしながら、忘れてはならないのです。今、この現在も不当にさらわれた方々が、そしてその家族たちが慟哭の一瞬一瞬を送っていることを、私たちの幸せはほんの偶然の産物に過ぎなかったことを、世論を喚起せねば前に進まないのです。そして、それを我々の仲間たちを血の叫びで求めているんです。所管が違うとか国家的問題だからという言いわけを考える前に、幾ばくかの一助を港区は担えるはずです。 ご清聴ありがとうございました。